大坂が、社稷を失う基☆ | げむおた街道をゆく

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将軍・秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、

この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
 

肥後守は、この当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、

誠に秀頼にとって補佐の臣であった。

この姫君が大坂に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、

これらは共に妄説である。

徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時、豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、

そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には、対面すらしなくなった。

この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は、秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、

秀頼は、全くその意見を聞かなかった。

 

そしてこれは、大坂が社稷を失う基となったのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 大坂城落城、豊臣秀頼

 

 

 

ごきげんよう!