賤ヶ岳で、秀吉相手に勇猛に戦った、鬼玄蕃こと佐久間盛政には、
二人の弟、安政と源六があった。
彼らも兄に劣らぬ勇者であり、賤ヶ岳の後も秀吉に反抗し続け、佐々成政に仕えた。
成政が、秀吉に降服した後は、徳川家康に仕えた。
が、天正14年(1586)、秀吉が妹朝日のみならず、母親大政所まで送ってきたことに、
家康もついに秀吉への臣従を決意。
そして家康は、安政と源六の二人を呼ぶと、申し訳なさそうに、こう語った。
「そういうわけで私は、秀吉に従うことと成った。
このままわしに仕えては、そなた達の、
秀吉に復讐するという願いは叶わないだろう。
そこでそなたたちさえ良ければ、北條殿に仕えてはどうか?」
家康は重臣の榊原康政を北條に派遣し、わざわざ安政と源六の召し抱えを頼んだ。
北條で、二人は大いに厚遇された。
北条氏政は彼らの勇猛さを大いに気に入り、また彼らも、
佐竹義宣との常陸江戸崎の合戦、皆川広輝の籠る下野大平城攻めなどで高名をなした。
しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、ついに北條も滅びる。
安政は、弟・源六に言った。
「我々はいつも秀吉に背いてきた。
小田原にあって6年、既に氏政公は御生涯なされた。
われら兄弟が死ぬ時は今であろう。
兵たちは、思い思いに逃げるべし。」
源六もこれに同意したが、しかし家人たちは、
「我々は、黄泉までお供をしたいのです!」
と、一人も逃げなかった。
彼らは小田原の自分の屋敷の周りに鉄砲狭間を切り、鉄砲揃えた。
戦闘の準備である。
間もなく豊臣軍の接収の兵が来る。
彼らは武士らしく、それと戦って討ち死にすることを求めたのだ。
と、そこに一人の武士が、屋敷の方に向かってきた。
「豊臣の検使がもう来たか!」
一斉に銃を向ける。
ところが、
「佐久間殿! わしだ!」
「榊原殿!?」
それは榊原康政であった。
彼は銃で固めたこの屋敷に、臆すること無くつかつかと入ると、佐久間兄弟に、
「殿のおっしゃったとおりだ。」
「殿? 徳川様が!?」
「そう、殿はお主たち二人を殊の外ご心配なさっていたのだ。
『このように成ったからには彼らは、もはや死ぬしか無いと思いつめているであろう。
しかし、わしはまだ、彼らを死なせたくない』
そうおっしゃって、わしをお主らのところに遣わしたのだ。
殿はお主たちに、富士の麓に隠れ家も用意された。
まだ死ぬべき時ではないぞ!
生きよ!」
佐久間兄弟は感激し、家康の勧めに従って小田原を退去した。
それからしばらくして、佐久間兄弟が生きている事を知った秀吉は、
二人の罪を許し、その後、蒲生氏郷に仕え、蒲生家減封の際、秀吉の直臣と成った。
関ヶ原では兄弟揃って家康に従い、石田三成の陣に、
勇猛に攻め込んだ。
その功で大名となり、隣り合った信濃飯山藩、長沼藩の藩祖と成った。
鬼玄蕃の弟たちの、賤ヶ岳のその後、のお話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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