天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。
元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である、
藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが、
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。
この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、
北畠家に送り込まれた織田信雄の居城・田丸城に、
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子・朝成を口を極めて批判した。
曰く、「人倫に非らず。」
朝成これに、
「私も本意ではありませんでした。
が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」
「それが間違っておる!」
慶田は言う。
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、
共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」
入道慶田はその後、自ら命を絶った。
切腹だとも、入水したのだとも言われる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!