斎藤龍興、稲葉山城を落とされて、長島へ逃亡。
その後、本圀寺で足利義昭を襲撃して返り討ちなったりと、
大名時代とは打って変わって、精力的に信長に抵抗するが、刀禰坂の戦いで、
かつての臣・氏家卜全の子にたたっ切られて死亡。
一説によると、死んでなかったという。
彼は脱出し名前を変えて越中へ。
現在の富山市のあたりで原野の開墾事業に従事。
「仏様は見てるから。」
「お経の力で、たくさん米とれるようになるから。」
などと、
その辺の人たちを励ましながらいつの間にか開墾チームのリーダーのようになる。
天正8年ごろに、その事業もかたがつき元龍興は一帯を経力と名づけた。
また鶴に導かれて地面を掘ってみると温泉がわいたのでここを整備した。(霊鶴源泉)
その後、彼は出家し興国寺の住職となり中興の祖となり、
寛永9年に87歳で亡くなったという。
世はすでに、徳川家光の時代であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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