織田家との和睦が成り、その後、尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、
斎藤父子の合戦がたちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。
故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む思いを成した。
斎藤道三は、当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、
右京亮に国を立てようと企んだ。
これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍は、これを聞いて大いに怒り。
「我、斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。
一方、彼は松波庄五郎といって商家の下賤である。
先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父・頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。
その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち、
太守・頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。
そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の至りである。
ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」
そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、
家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、
斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに討ち捨てた。
稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を攻め落とし、左京大夫義龍の頸を見せよ。」
と息巻いて下知した。
しかしながら元来入道の悪逆無道によって、
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。
鷺山は老臣・林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して、
長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。
敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。
義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の甥であり、
別して晴れがましい軍であった。
然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも無く攻めれば、
道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、
鷲見美作守と言う者の居た明城であったが、これに道三は引き籠もり、
林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。
同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。
この時に時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。
義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三打ち負けて、
同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、
城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、
小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、
突き伏せて首を討ち落とした。
証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、
これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。
この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く仕われたが、
非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、
人も多き中に優れて道三を討った。
然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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