寛永11年(1634)、森忠政は、徳川家光の上洛の供を命じられた。
病を理由に役儀を辞退する忠政に対し、
家光は現在の美作18万石から出雲等30万石への国替えを提示。
ここまでされては忠政も受けざるを得ず、7月1日には家光に先立ち、京に入った。
忠政の身に異変が起きたのは7月6日。
出入りの豪商・大文字屋の屋敷で昼食をとり、
膳に載った桃を食べた後のことである。
急に顔をしかめ、苦しみ出した忠政に同席者が容態を尋ねたところ、
「脇差で腹を切っても、これほど痛くはないだろう…。」
とまで言うので、あわてて宿舎に引き上げ、
鍼灸・加持祈祷とあらゆる手を尽くしたが、
甲斐なく、苦しんだ末に7月7日、世を去った。
あまりにも不審、かつ急な逝去に当時家臣たちは、30万石への国替えが惜しくなった、
あるいは嫡子・忠廣とその婦人(秀忠養女・家光の義妹)の相次ぐ変死に不審を抱いた、
家光による毒殺ではないか、と噂したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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