天正十年六月二日、京都に於いて、
信長・信忠親子と蘭丸、坊丸、力丸、
伴氏の伴正林伴太郎左衛門等が、討死したことは、
三日の辰刻には、甲賀の伴惟安にも伝わった。
そのとき長可は川中島にいて、母の妙向尼と千丸(忠政)は人質のために安土にいたが、
惟安は以前から可成、長可にとりわけ目をかけられていたので、
「今お二人は、さぞ途方に暮れていられるだろう。」
と一族で話し合い、
四日に野越の間道を越え安土へ行き、
妙向尼と千丸をお守りして五日に甲賀へ連れ帰り、
二人をすぐに自分の家に移し、伴氏一党で番をした。
十三歳の千丸はどじょうすくいとカエル釣りが好きなの、
で伴家の子供達は日々お供していた。
あるとき、
「お千殿、いざカエル釣りに行きましょう。」
と子供達が言うと親どもが来て、
「大名のお子様だが、訳あって少しこちらにいらっしゃる間は、
お千様とお呼びし、何事も逆らわずお心のままにするのです。」
と堅く制したという。
長可が信州を引き払って金山に帰ってくると、
九月十一日に甲賀に迎えを送ったが、
伴一党は守山武佐筋に朝倉の残党がいる可能性を危惧し、
伊勢街道をお供して、
勢州坂下で妙向尼と千丸を迎えの金山の者に渡した。
この忠義により、
天正十二年の暮れに、甲賀に迎えが送られ、
十三年の春、伴惟安と惟利の親子は、
初めて森家へ出仕することになり、
他の残った伴党も、この親子の口利きで召し出されることになったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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