天正14年(1586)の早春の事だという。
京にあった丹羽長重は、帰国するため豊臣秀吉に対し暇を賜ることを願った。
このとき秀吉は、
長重の膝下まで近づくと、彼に言葉を投げつけた。
「お前は知っているのか?
お前が歳若きことをお前の家老たちが侮り、
長秀の遺した掟、
そしてわしが直々に申し渡した掟にすら背き、
私意を持って国を乱そうと企んでいることを!
既に去年秋の北成(佐々成政、成敗)の時、お前を欺き悪事を働く家臣があって、
越中表において軍令に背いた!
この糾明のため、しばらくお前の分国を散り上げる!
ただし、特別に若狭だけは残してやる。
お前は帰国の上早々に、若狭国小濱の城に移るのだ!」
しかし、この没収命令以前に、
丹羽家において秀吉の命令に従わなかった重臣たちは、
すでに追放されるか又は逃亡し、処分は既に済んでいたのだ。
そして長重の若狭移封により、秀吉の命令に従ったものまで丹羽家を離れることになり、
彼らは、あるいは秀吉の直参となり、あるいは新たに越前に入った堀秀政に与えられた。
丹羽家中の解体が、行われたのである。
ともかくも、ここに百万石を超えた丹羽家の領地はそのほとんどを没収され、
丹羽長重は、
わずかに若狭小濱12万3千石の領主に転落した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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