天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は、越中の佐々成政を征伐するため、
近々北国に発向すると表明。
そして越前領主・丹羽長重に、その先陣を許した。
長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。
8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。
長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、
北ノ庄城への渡御を乞う。
秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、
長重からの饗応を受けた。
時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。
この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、
この饗応に大いに喜んだ風で、
丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
そして一同にこう申し下した。
「よいか、国主・長重は年若い。
お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、
直ちに首を刎ね、長重の領地は全て没収する!
そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
固くこの旨を心せよ!」
そう厳命すると長重の方を向いて、
「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。
そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
そなたの父・長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、
その英名は天下を恐服させたものだ。
そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。
謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、
これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。
この旨をよくよく理解せよ!」
そう厳命した上で北の庄を発した。
秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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