柴田勝豊の降参と織田信孝との和睦後。
山崎城で越年した秀吉は、元日より播磨姫路に赴き、
2日3日の間には諸国の大名小名が袂を連ねて踵を接し、車馬門前の市をなす。
秀吉は朝には礼者に向かって親愛を尽くし、夕には近習に対して政道を説き、
天下の工夫は昼夜いとまあらず。
そうして若君御幼少の間は伯父の織田三介信雄を御名代となし、まず若君を安土に移し奉った。
正月初旬に秀吉もまた安土に至り、国々の諸侍は若君への礼儀を調え尊仰をもっぱらにする。
あたかも将軍(織田信長)御在世の時のようで、
まことに君臣の礼は諸人の感心するところであった。
秀吉は安土に10余日逗留して、その後また山崎に帰り、諸国に陣触して軍兵を集めた。
軍兵は長浜に寄せ来たり、秀吉は重ねて堅固にその人質を取った。
その頃、勝豊(柴田勝豊)は病気が穏やかならず、起き伏しも叶わずに病床にあった。
これ故に自身で出張することはできず、与力に大金藤八と山路将監(正国)を、
越前の境目に遣わし、片岡天神山に出城を拵えて修理亮勝家に相対し、
秀吉への無二の色立ての奥底を極めて、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)と組んで、
越前の押さえとなった。
(中略。滝川一益の挙兵)
秀吉は引き退いてまた長浜に至り、しばしば帷帳の中にいても心はあらゆる方面に向けられ、
夙興夜寝の謹み浅からず。
はたまた伊賀守勝豊は病気に堪えずにより上洛して、扁蒼の術を尽くしてもその効果はなく、
すでに易簀に及ぶを嘆いて曰く、遺言したのである。
「私は一世の内に再び越州の地を踏んで本懐を遂げるべく、
恨みを晴らそうというところで、不幸にもこのようになった。
秀吉が越前を平らげて私の望みが叶えば、草葉の陰の弔慰となるだろう。」
秀吉は涙を押さえて離別を惜しむも、無常の習いでついに勝豊は逝去したのである。
秀吉は金銀を賜って洛中洛外の僧をもって供養し、
葬礼法会を行ったことは数えきれないほどであった。
ここに至って秀吉は勝豊の人数を同木山に入れ置いたが、調略の風説があった。
これにより木村隼人佐(定重)が入れ替わり、大金藤八・木下半右衛門(一元)・山路将監は、
外構に出してもっぱら、これを用心した。
すると山路将監の謀叛は次第次第に露見し、
将監は妻子を捨てて白昼に敵陣へと走り入ったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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