織田信孝は、四国征伐を命ぜられ、渡海の準備をしている際に、本能寺の変が勃発した。
しかも信長の死により逃亡兵が相次ぎ、混乱もあって、
従兄弟の津田信澄を殺害に及び、方面軍として単独では動けず、
中国帰りの羽柴軍に合流し、「名目上」は総大将として山崎の戦いに参戦。
仇である明智光秀を撃破した。
清洲会議で、その存在を秀吉に無視され、 織田後継者は甥の三法師に決定した。
信孝は兄・信忠の遺領美濃を与えられ、後に秀吉に兵を起こすが、
降伏せざるを得なくなり、人質を出し秀吉に屈した。
賤ヶ岳の戦いでは再度挙兵。
しかし居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で敗れると自身も降伏。
信孝は尾張国知多郡大御堂寺に送られ、秀吉に迫られて自害した。
享年は26という。
辞世の句は、
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
この辞世が現実のものとなるのは、それから32年後のことであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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