天正10年3月、東照宮は江尻に出陣し、
成瀬吉右衛門正一を使者として、田中城の依田右衛門佐信蕃に、
「武田の重臣は悉く寝返り、武田の滅亡は間近である。早く開城するように。」
と開城を勧めたが、
依田は従わずに、
「武田の重臣達の書状を見て真偽を判断したい。
先年、二俣城で大久保忠世とは縁がありますので、
大久保に城を引き渡したいと思います。」
と申してきた。
東照宮も、
「尤もである。」
と言い、穴山梅雪に書状を送らせた。
開城の後、
「降参するならば、信州の本領を与える。」
と東照宮は言ったが、依田は、
「勝頼の命運がはっきりしないうちは、承り難いことです。」
と言い、信州佐久郡葦田へと去っていった。
武田が既に滅びた後、織田信長は、
「勝頼に忠節を尽した者と雖も、武名ある者を諸将は召し抱えてはならない。」
と命じ、なおも隠れ潜む武田の旧臣を処刑しようとした。
東照宮はこのことを憐れに思い、依田を市川の陣に召し出し、
主従六人を遠州飼東郡二俣の奥小川に匿った。
その他にも東照宮の仁徳のおかげで助かったものは多かったそうな。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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