この年(1575年)6月より大久保七郎右衛門忠世は蜷原の砦において、
二俣城を乗り取らんと謀を巡らせた。
守将の依田下野守幸政(信守)は、
先より老病危篤であったが、6月19日ついに亡くなった。
その子・右衛門信蕃、その弟・源次郎信行(信幸)と善九郎信慶らは、
亡父の遺命を守って堅固に籠城し、
浜松よりもしばしば軍勢が向けられて攻められたものの、
信蕃兄弟は厳しく防戦して義を守った。
12月に至ると城内は次第に兵糧米も尽き果てて、今は籠城も叶い難くなった。
甲斐からも勝頼が印書を遣わして、
「只今後巻の人数を遣わし難い。これまで籠城した義忠は天晴手柄なり。
今は早く城を開いて甲州へ帰るように。」
と申し送られた。
しかし依田兄弟は、なおも義気弛まず城を枕に討死せんと思い定めていた。
そこに神君(徳川家康)より、
大久保新十郎(忠隣)・榊原小平太(康政)をもって、
「依田兄弟が7ヶ月籠城して義心勇気をあらわしたことは感ずるに余りある。
とはいえ後詰の頼みもなき孤城を守って餓死するのは、
知慮の足りぬようなものである。速やかに城を渡して命を全うし、
後の功を立てられるべし。」
と、利害を説いて和睦を勧めなさった。
依田兄弟もようやく得心して12月23日に城を開けると定まり、
新十郎と小平太が証人として城内に入ると、依田からは源次郎・善九郎兄弟を証人に出した。
ところが23日は雨が降っていたため、蓑笠を着て城を出るのは見苦しいとして、
翌24日、快晴を待って、城内をよく掃除させて、城兵をことごとく引き払い、
二俣川で互いの証人を取り返すと、静々と引き取って高天神城に入り、田中城をも守った。
神君も、この兄弟の振舞いを天晴頼もしく思し召し、御賞美なさったという。
さて二俣城は、大久保忠世に賜った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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