三郎殿に、謀叛の聞こえあり☆ | げむおた街道をゆく

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徳川家康の嫡男・三郎殿(松平信康)成人の後、

岡崎城へと入ったが、彼には傅役として平岩親吉がつけられた。

常には彼が、家のことを執り行い、合戦においては、
その介添えをした。

 

三郎殿が若年にもかかわらず、弓矢の御名が海道に顕れたのは、
平岩の功が莫大であったと言われている。

天正3年の秋、三郎殿の舅である織田信長が、酒井忠次を召して、

三郎殿に謀叛の聞こえあり、
事未だ成らざる内に、速やかに誅せよ、そう伝えた。

平岩は、これを聞いて大いに驚き、急ぎ家康のもとに参った。
「岡崎殿(信康)御謀反の噂があるため、これを失わせると承りました!
父子の御仲、何の遺恨があって今、このような結論に至るのでしょうか。
これは偏に、讒者の訴えたことが原因でしょう。

殿がもしその真実を糺されないのなら、
後悔遠きには出ないでしょう。

こうしてください。この親吉が年来傅役として岡崎殿に付けられていた以上、

罪は親吉一人の身の上に帰せられ、

速やかに首を召して信長のもとに参らせるのです。

そうすれば信長も、
暫くはこのことを言い出さないでしょう。
岡崎殿の御身においては、本当に咎は無いのですから、

とのかく時間を稼いでいるうちには、
申し開きをするまでもなく、信長の疑いは解けるでしょう。
どうかどうか!

親吉の首を召して下さい!」

家康は答えた。
「信康の謀叛の噂が、本当とは思わない。

だが、私は今乱れた世の中にあって、大国の間に挟まれ、
頼む所はただ、信長殿の援助だけなのだ。

いま、彼の助けを失えば、我家が滅びること、明日を待たないだろう。

であれば、私が父子の恩愛が捨てがたいために、累代の家を滅ぼすというのは、

これは子の憐れみを知って、
父祖の事を思い参らせないと言う事ではないか。

この事を考えていなければ、どうして罪なき子を失って、
つれなく身を立てようと思うだろうか。

また、お前の命を奪って信康の首を継がせることが可能ならば、

お前のいう所も一理あるだろう。
だが、信康はもう、逃れられないのだ!

その上にお前まで失っては、この家康は恥を再び重ねる事になる。

お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない。」

そう、涙にむせびながら語った。

これに平岩は、重ねて申し出す言葉もなく、声を惜しまず、大声で泣いた。

こうして三郎殿は岡崎の城を出て、大濱に移され、堀江の城に入って、

また二俣城に移され、
ここにて切腹するよう天方山城守、服部半蔵が使いに参り、

同年9月15日、御年22歳にて失われた。

この事に当家も他家も、おしなべて惜しまぬものはいなかった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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