徳川家康の嫡男・三郎殿(松平信康)成人の後、
岡崎城へと入ったが、彼には傅役として平岩親吉がつけられた。
常には彼が、家のことを執り行い、合戦においては、
その介添えをした。
三郎殿が若年にもかかわらず、弓矢の御名が海道に顕れたのは、
平岩の功が莫大であったと言われている。
天正3年の秋、三郎殿の舅である織田信長が、酒井忠次を召して、
三郎殿に謀叛の聞こえあり、
事未だ成らざる内に、速やかに誅せよ、そう伝えた。
平岩は、これを聞いて大いに驚き、急ぎ家康のもとに参った。
「岡崎殿(信康)御謀反の噂があるため、これを失わせると承りました!
父子の御仲、何の遺恨があって今、このような結論に至るのでしょうか。
これは偏に、讒者の訴えたことが原因でしょう。
殿がもしその真実を糺されないのなら、
後悔遠きには出ないでしょう。
こうしてください。この親吉が年来傅役として岡崎殿に付けられていた以上、
罪は親吉一人の身の上に帰せられ、
速やかに首を召して信長のもとに参らせるのです。
そうすれば信長も、
暫くはこのことを言い出さないでしょう。
岡崎殿の御身においては、本当に咎は無いのですから、
とのかく時間を稼いでいるうちには、
申し開きをするまでもなく、信長の疑いは解けるでしょう。
どうかどうか!
親吉の首を召して下さい!」
家康は答えた。
「信康の謀叛の噂が、本当とは思わない。
だが、私は今乱れた世の中にあって、大国の間に挟まれ、
頼む所はただ、信長殿の援助だけなのだ。
いま、彼の助けを失えば、我家が滅びること、明日を待たないだろう。
であれば、私が父子の恩愛が捨てがたいために、累代の家を滅ぼすというのは、
これは子の憐れみを知って、
父祖の事を思い参らせないと言う事ではないか。
この事を考えていなければ、どうして罪なき子を失って、
つれなく身を立てようと思うだろうか。
また、お前の命を奪って信康の首を継がせることが可能ならば、
お前のいう所も一理あるだろう。
だが、信康はもう、逃れられないのだ!
その上にお前まで失っては、この家康は恥を再び重ねる事になる。
お前の志は、何れの世にあっても忘れることはない。」
そう、涙にむせびながら語った。
これに平岩は、重ねて申し出す言葉もなく、声を惜しまず、大声で泣いた。
こうして三郎殿は岡崎の城を出て、大濱に移され、堀江の城に入って、
また二俣城に移され、
ここにて切腹するよう天方山城守、服部半蔵が使いに参り、
同年9月15日、御年22歳にて失われた。
この事に当家も他家も、おしなべて惜しまぬものはいなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!