奥平貞昌(信昌)は、長篠の戦で長篠城を守り抜き、
戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、
実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である奥平貞友の娘で、おふうと云った。
元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、
信昌の父・貞能は武田に降ることを決意、その証として人質を要求され、
おふうは貞昌の弟の千丸(千千代)らと共に、
甲斐へ差し出された。
元亀4年4月、武田信玄没。
信玄の死を察した貞能父子は、密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。
しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。
土壇場になって、貞昌はおふうを離縁する。
最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という想いからであった。
だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に、
奥平氏の本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。
天正元年9月のことである。
処刑の前、おふうは、こう述べたという。
「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
畜生はおのれに正直に生きていけますが、
人は互いに騙し合わねば生きていけません。
人は畜生以上に浅ましいものでございます。」
そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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