貝原益軒、曰く。
甲州流兵学の起こりは、小幡勘兵衛(景憲)より始まる。
勘兵衛は甲州の武士・小幡山城(虎盛)の子である又兵衛(後豊後・昌盛)の子である。
豊後は天正三年(原文ママ・実際には十年)の武田勝頼滅亡の時に病死した。
勘兵衛は、その時九歳であったが、家康公がこれを尋ね出し、
勇士の末であるとして、井伊兵部(直政)と共に、
秀忠公の御遊伴に定められた。
十六歳の時、武者修行の志有って、玄関にて髪を切って駆け落ちした。
家康公はこれを憐れまれ、
尋ねさせられたが、その居場所を知ることは出来なかった。
勘兵衛は所々を遊歴し、慶長五年の関ヶ原の時、井伊兵部に従って功があり、
そのまま佐和山に浪人して居住した。
慶長十九年、大阪冬陣に偽って籠城し、夏陣の時城を出、
秀忠公に召し出されて御使番となった。
彼は高坂弾正の書を集め、また甲州の士が数人、井伊兵部に仕えて佐和山に在ったため、
彼等に武田信玄の事を尋ね聞いて、甲州流の兵術を建立して人の師となった。
高坂弾正の作った書は甲陽軍鑑十九冊、同末書上中下結、要本龍虎豹の三品である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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