富田長繁は、朝倉降将では、2番目の古参に甘んじた。
1番目は、僅か1日前に降伏した前波吉継である。
信長が朝倉氏を滅ぼすや、吉継は越前守護代、
長繁は府中城主と大きく水を開けられた。
先年の長島一揆戦で殿軍として目覚ましい活躍をした長繁は、
『最高でも越前守護、最低でも越前半国守護』
の野望を持っていたから、当然に不満を持った。
長繁の野望に気付いた吉継(桂田長俊)は先手を打って、
『長繁の府中支配は信長様に無益です。』
と訴訟に及び、両者の対立は時間の問題だった。
そして、長繁は1月20日に一揆を呼び込んで、吉継ら前波一族を皆殺しにした。
吉継は奮戦するも、すでに失明しており、いかんともし難かった。
勢いの止まらない一揆は、北ノ庄駐在の信長の代官を襲撃するも、
朝倉景健らの仲介でからくも代官を脱出させた。
次いで1月24日、長繁は魚住景固親子を朝食に誘い、魚住一族を皆殺しにした。
魚住は仁者として有名な武将であり、
『非道の限りを尽くした前波を滅ぼすのはともかく、
ここまでひどいことをするのはあり得ない。
魚住と協力すれば越前に仁政を敷けたのに、長繁はいったい何を考えたんだか。』
と批判された。
そんな批判はどこ吹く風と、長繁はかねての野望を実現するため、
弟を質に差し出し、『越前守護の朱印状』を信長に要求した。
長繁は朱印状を得たと吹聴したが、信長の越前支配体制を崩壊させた張本人に、
朱印状を出すバカもいないであろう。
一方、長繁の無茶苦茶なやり方に賛同するものはおらず、
長繁は越前で次第に孤立した存在となる。
また、長繁が呼び込んだ一揆はもはや制御不能で、
長繁の片腕たる増井・毛屋を殺し、
総勢14万の一揆は雪崩を打って長繁の居城に攻め込んだ。
長繁は、
『敵は大軍だが、このまま一揆をのさばらせるのは無念だ。突撃開始!』
と下知し、僅か700騎で一揆の大軍に突撃し、見事撃退した。
一揆は蠅の如く逃げたとある。
勢いに乗った長繁は、何をとち狂ったか、友軍の朝倉景胤にも攻撃した。
その戦ぶりは、
『葉武者には目もくれず、まっしぐらに景胤の本陣目掛けて切りかかった。』とある。
2月18日、長繁は「敵」(本当は友軍の景胤勢)いる山上を再度攻撃した際に戦死した。
享年24才。味方の小林吉隆に背後から銃撃されたのである。
長繁が越前国を支配すること20日目のことであった。
越前の人は長繁をこう評した。
『長繁は古の樊膾のような古今無類の猛将だが、
まずは鉾を縮め、武を隠して人の心を捉えるべきであった。
その逆を爆走した長繁は、若気の至りか。』
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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