本多政重☆ | げむおた街道をゆく

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本多正信の三男・本多政重。
彼は倉橋長右衛門の養子となり、家康、秀忠に仕えた。
慶長二年八月に岡部庄八という者と、衝突、これを切って出奔し伊勢に逃れる。
正木左兵衛と名を変え、宇喜多秀家に仕えた…が、この後が不可思議なのである。

関ヶ原の後、宇喜多家を浪人し、福島正則、前田利長に仕え、

慶長九年には前田家の仲介のもと上杉家に仕える。
わずか七年間で四家を渡り歩くというのはあまり例がない。
一介の葉武者ならばまだしも前田家では三万石を食んだ大身である。
父・正信に命じられてのスパイ活動だったという説も。

さて政重が上杉家に仕える際には二つの条件があったという。
一つは直江兼継の娘婿になること、

もう一つは生まれた子は上杉景勝の嗣子とすることである。
関ヶ原で睨まれた上杉家の保身のための条件とも考えられるが、

結局、男児は生まれることがなかった。

さらに下って慶長十六年、政重はまたしても浪人する。
すると藤堂高虎が、前田利長に召し抱えることを書で勧めた。
利長が応じたため、古巣である前田家に再び使えることになる。
知行は三万石、三年後には五万石に加増されている。
利常の代となってからは家老として腕を振るった。

後年、家光によって、子の一人を五千石の旗本として差し出すように命じられた際、
周囲の反対を押し切って長男を出仕させた。
政重曰く、「長男は少々抜けておる故、百万石の家老には向かぬ。

だが将軍家は八百万石、多少の馬鹿を召し抱えても差し支えあるまい。」

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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