能登畠山家重臣・長氏に、長連龍という者があった。
はじめは僧籍にあり、30歳くらいの時に戦の人手として還俗し、
武将として働くようになる。
さて1577年に、上杉軍は能登へ攻め入り、七尾城を陥落させた。
その際、畠山方死守派の長氏は連龍を使者に織田へ送ったが、
内応派の温井氏や遊佐氏らにより、
連龍を除いて長氏一族はみな殺されるか叩き出されることになった。
連龍にしてみれば、応援の約束をこぎつけて戻ってみると、
城すでに落ち一族ちりぢりのありさまである。
連龍は生き残った一族や旧臣、浪人らを集めて、
一度はかつての居城を取り戻すも、再び追われた。
その後、織田に属した神保氏を頼って体勢を整えるも、
謙信の死によって情勢がゆらいだことで、
温井氏・遊佐氏らは織田に降伏。
信長は連龍に彼らを許すように命じた。
しかし連龍はこれに従わなかった。
信長は苛烈で知られ、そもそも恩のある相手だが、
それでも服せぬほど復讐の念は強かった。
この後も何度か温井氏・遊佐氏らから信長へ降伏の申し出があり、
その度、信長は許すよう命令したが連龍は常に不服の態度を示した。
そのうち一度は、信長は連龍から贈られた脇差を返している。
「いい加減にしておけ。」
ということだろう。
しかしなお連龍は服さず、攻撃を続け、土地を切り取り、主導権をかけた決戦で勝ち続けた。
やがて、とうとう温井氏・遊佐氏は信長に、七尾城を明け渡して降伏したいと申し出た。
温井氏・遊佐氏らは一旦上杉方へ寝返ったものの、
上杉家臣で七尾城へ派遣された鯵坂なる者を追い出して、
七尾城を奪回し、かつての合議制を取り戻していたが、
それを手放し預けるので、助けて欲しいというわけである。
これに対し信長は、申し出を受け容れ、すぐさま城代を送り、さらに連龍に対しては、
「これまでの戦功は認めて鹿島半群をあげよう。城は福水がよいだろう。」
と知行を出しアドバイスまでするという具体的な行動を初めて起こした。
これまでの「自重する」「だが断る」では済まない。
さすがに連龍もこの時ばかりは従い、その通りにした。
七尾城代が派遣されると、温井氏は退去、遊佐氏は逐電した。
しかしやはりそれで終わることはなく、連龍は、
その年のうちに遊佐氏一族を見つけ出し皆殺しにした。
温井氏は、これに危機感をおぼえ越後へ亡命するも、
本能寺後の時分に背く動きを見せたとして、
連龍および佐久間盛政を先陣とした前田利家軍に攻められ、敗死した。
この間に、連龍は他にも、同じく父の仇である三宅氏や八代氏も討っている。
温井氏反乱討伐事件は1582年のことで、
実に5年間に渡る徹底した仇討ちはようやく終結した。
連龍はこの後からは、前田利家の部下として大小の戦を果敢に戦い、
ついには前田家老八家のうち一家として、
三万三千石を拝するようになるが、それはまた別の話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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