相馬利胤☆ | げむおた街道をゆく

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慶長7年(1602)5月、相馬家は佐竹家に連座して改易が決まった。

相馬義胤は家臣を集め、
「このままではお家の破滅。佐竹殿から『1万石で仕えぬか』と誘われているがどうか?」
と広く問うた。

 

義胤の嫡男・三胤が進み出た。

「私は反対です。ここは私が江戸に行って徳川殿の怒りを鎮め、

少分なりとも天下人の禄を受けられれば本望です。

今、飢えを凌ごうと佐竹に仕えるなら、滅んだほうが良い。」

義胤もこの意見を容れ、三胤は14名の家臣を連れ江戸に向かった。

途中、三胤のもとに、
義胤に暇を出された鈴木金兵衛と志賀久内が現れた。
「お家の危機なれば推参。お許しあれば如何なる奉公でも勤め上げ、旧恩に報いまする。」
三胤はこの2名の同行を許し、さらに江戸へ急いだ。

江戸に着き、谷中瑞林寺を宿所とした三胤一行は、

住職と懇意の旗本、藤野宗右衛門を招いて相談した。
「お話は承った。して、その話を家康公に通せる要人など、ご存知かな?」
家督相続も済ませていない小大名の子の三胤に、徳川家中の知人などあろうはずも無い。
途方に暮れていると、同行の士の一人、門馬吉右衛門が突然ある事を思い出した。

天正も終わり頃のこと。

豊臣秀次の関白補任の儀式の際、相馬義胤も式典に参加した。
諸大名は殿中で式典を見守ったが、その従者たちは炎天下に晒されて白洲に控え、

義胤のすぐ下にいた侍も、フラフラになっていた。
見かねた義胤は、「これを笠にされよ。」と、

その侍に自分が座っていた円座を貸し与えた。
「か、かたじけない。拙者、徳川家中の島田治兵衛と申しまする。」

この時、義胤の従者だった吉右衛門は、その男・島田治兵衛の名を挙げた。
「かの治兵衛殿、今や徳川家の執事に次ぐ職分とか聞きまする。ぜひ、お頼みなされ。」
「しかし関白秀次公の頃と言えば、10年以上も前の事であろう。

その後、音信もない者が覚えているものか?」
三胤は半信半疑だったが、吉右衛門の強い勧めにより治兵衛に書状を出した。

さて、島田治兵衛重次は2千石の大身旗本として、

伊奈忠次、次いで本多正信の下で関東総検地を任される身であった。
書状を見た治兵衛は、

「覚えておりまする。疎意あるべからず!」
と言い放ち、さっそく三胤の訴状を受け取ると、上司の正信に提出した。

かくて正信による家康への嘆願により、相馬家は旧領三郡の安堵を許された。
のちに三胤は「三成」に通じる名を蜜胤、さらに土井利勝より一字もらい利胤と改めた。

江戸行きに加わった14名はそれぞれ加増、鈴木金兵衛と志賀久内も再び召抱えられ、
瑞林寺の住職の甥を家老の一門に加えた。

島田治兵衛と藤野宗右衛門は、利胤個人と昵懇の間柄になったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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