天正17年(1589)、蘆名義広は、摺上原の戦いによって、
従兄に当たる伊達政宗より会津を追われた。
それ以前から伊達政宗の累年の狼藉は豊臣秀吉の耳にも聞こえており、
蘆名義広に対して少々の援助は有ったものの、
何と言っても都鄙は遠く離れており、援兵を送ることが出来なかった。
その為この様な事態になったのである。
こういう事であったので秀吉は義広に、会津を奪われた罪を問うこともなく、
この年、小田原征伐のため関東に下向した後に、政宗の所領を取り上げ、
先規のごとく義広を旧領に戻すと、折あるごとに伝えてきた。
これを義広は一途に頼りに思っていた。
さて、3月になって秀吉は、北条退治として相模国に下向し、小田原にしばらく陣を定めた。
この時、蘆名義広は石田三成を通して、前から内々に言われていたよう、
会津への復帰・安堵の御沙汰が出ることを願い上げたが、
はたして、鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば猟犬も煮て食われる、
という諺の通りであろう。
秀吉は去年までは、北条を退治することを心にかけ、
関東・奥州に一人でも味方をつくろうと考えている時は、
義広にも会津への復帰の御沙汰などあったのだが、
この頃小田原北条氏は、秀吉軍の猛攻に言う甲斐もないほど弱り果て、
残った燭の火が今まさに消えようとする有様であり、
逆に秀吉の威光の上り立つこと、烈火の焔を巻くにも似ており、
この様な状況で義広は、
旧領復帰の沙汰を、言い出すことすら出来なかった。
その後も折につけ様々に訴えたが、秀吉の方ではこれに全く関心を示さず、
会津の旧領を回復することは終に無かったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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