武田氏が天目山で滅亡し、本能寺で信長が倒れるや、徳川家康は甲信支配に乗り出し、
武田旧臣を多数召し抱えた。
家康、「武田家での俸禄を安堵するから、それぞれ俸禄を申告せよ。」
といったが、初鹿野伝右衛門は俸禄を申告したにも拘わらず、
家康への仕官を断った。
伝右衛門はもともと加藤駿河守の六男で、
川中島の合戦で戦死した初鹿野氏の養子となり、
かつ実兄の源五郎は天目山で戦死していたので、
申告書に、
「養父の禄400貫(初鹿野家の相続分)と、実家の禄250貫(加藤家の相続分)を、
合わせた650貫を頂戴したい。」
と記載したが、
実家・加藤家の縁者が、
「養子に出た伝右衛門が実家の禄を相続するのは許せない。」
と家康に抗議して、家康が、
「伝右衛門には、初鹿野家の400貫のみを与える。」
と裁定したからである。
伝右衛門は、
「他人は皆親兄弟の禄を申告して認められているのに、オレだけ認めないのは不公平だ!」
と激怒して家康の朱印状を墨で塗りつぶし、
さらに、
「こんな朱印状はくそ食らえじゃ。オレは殿にへつらってまで仕官したいと思わねぇ!」
と暴言を吐いた。
それを聞いた家康も、
「伝右衛門の無礼は許さぬ!」
と激怒して俸禄を没収して伝右衛門を追放した。
浪人となった伝右衛門は、翌年の小牧長久手の合戦に徳川家の友人の陣借りとして参加し、
一番に敵の首をとって手柄を挙げた。
目ざとく伝右衛門を見つけた家康は、
「伝右衛門を連れて参れ。」
と言い、伝右衛門は家康の元に跪いた。
「貴様の無礼は許せなかったが、今日の一番首の手柄に免じて仕官を許してやろう。
今後もあのようなめざましい働きをするならば、
貴様の申告通りの俸禄を与えてやろう。どうじゃ伝右衛門。」
それを聞いた伝右衛門は、涙をながして喜んだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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