武田勝頼の家臣に、土屋昌恒という者がいた。
彼は、信玄の時代から、武田の次世代を支える逸材と期待されていた男であった。
さて、織田・徳川による武田征伐が起こる。
御存知のように武田は次々と城を落とされ、家臣、一門が続々と寝返る中、
昌恒は、常に勝頼の側にあった。
やがて天目山に追い詰められ、勝頼が自害すると言う時、
彼は勝頼の自害の時間を稼ぐため、追って来る織田軍の兵を峡い崖道で迎え撃ち、
片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、もう片手で槍を振るい進軍を阻んだ。
が、多勢に無勢、
後に、「片手千人切り」と呼ばれるほど奮戦したものの、やがて討ち取られた。
しかし、彼が稼いだ時間のおかげで、勝頼たちは縄目の恥辱を受けることなく、
自害する事ができた。
さて、戦後である。
この昌恒には、惣蔵と言う幼い息子がいた。
織田の残党狩りを避け、親族のいた駿府の清見寺に匿われていた。
しかし、そこは織田の同盟者である徳川家康の新領地。
まもなくその存在は察知され、彼は徳川の手のものに捕まり、家康の前に引き出された。
甲斐での、織田による残党狩りの禍々しい噂は、駿河にも聞こえていた。
可哀想に、あの子も殺されるのだろう。
皆、そう思っていた。
ところが家康は、引き出されてきた惣蔵を、丁重に扱った。
「お主の父の最後は聞いた。わしは、お前の父のような侍を尊敬する。」
そしてこの少年に向かって言った。
「出来れば、わしの息子、秀忠の、小姓になってくれないだろうか?」
彼は後、土屋忠直を名乗り、やがて上総国で2万石を与えられ、久留里城主となる。
侍の、命を捨てた忠誠は、自身も主家も滅びてもなお、子に福を与えることもある。
と言うお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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