武田信玄の家臣に、美濃出身の多田満頼と言う武将がいた。
合戦に臨むこと二十九度、身に二十七の創を負い、感状を受けること二十九度という、
紛れもない勇者であった。
信玄が上田方面に侵攻し、一帯の砦を次々と落とした際、
満頼に虚空蔵山の守備を命じた。
ところがこの虚空蔵山に、夜な夜な火車鬼と言う妖怪が現れ、
兵たちを悩ませ戸惑わせると言う事態が起こった。
ある夜、満頼が見張っていると、この火車鬼が現れた。
そこで満頼はすばやく抜刀しこの妖怪に斬り付けると、
悲鳴を上げたちまち闇に消え、それ以来火車鬼は姿を現さなくなった。
一説には、この「火車鬼」とは、
戦乱に乗じてその地域一帯で火付け強盗を働いていた夜盗の頭目であった、とも言う。
ともかく、この武勇談とともに、多田満頼の名は天下に響き渡った。
さて、永禄六年(1563)、満頼は病死し、その後を子の久蔵が継いだ。
この久蔵もまた、父の名を辱めぬ勇者として高名を成したが、
天正三年(1575)五月、
長篠の合戦の折、奮戦むなしく敵に生け捕られてしまった。
その折の姿が裸に緋緞子の下帯と言う異様なものであったため、それを見た信長は、
「おぬしは何者か?」
と尋ねた。
彼は傲然と胸を張り、「美濃国の住人、多田久蔵なり。」と答えた。
信長は手をたたいてこれを喜び、
「お主が火車鬼退治の多田満頼の息子か!
よいか、縄目を受けたのは決して恥ではない。
悪源太義平の例もあるではないか。
また、美濃の者と言えば我が織田家の身内も同然である。
これより後は、わしに奉公するがよい。」
そう言って近習の長谷川秀一に縄を解かせた。
すると久蔵は近くにあった槍を奪い取り、たちまち周りにいた4,5人を突き殺したが、
取り押さえられ、長谷川によって首を取られた。
差し出された首を見た信長は、彼の死を深く惜しんだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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