長篠の合戦の時、武田勝頼は、
「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている。」
と語った。
これに対して、
武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は、
申し上げた。
「敵軍は四万、我軍は一万です。
この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず放火し、
その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、
一両年中に存分と成るでしょう。」
という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が、
「合戦を遂げることこそ尤もです。」
と、言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。
この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、
殊に弁舌明らかであった。
この時、六十三歳であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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