(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、
小姓衆多き中にて近習である友野形部の息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで、
「扇切りを致せ。」
と太郎殿は仰せになった。
その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。
日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立てて向かう。
その時に信勝は、
「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心である。」
と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。
これを高坂弾正は聞いて曰く、
「この御曹司太郎信勝は、近代の名人の大将衆、
安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾州信長・三州の家康・祖父信玄公の、
幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば。」
と、只今武田の家は万事政事みだりになり、
一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、
長坂長閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって、
信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風は悪しくなった。
そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、
空しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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