今川氏真の駿府退去後。
駿府の西にある花沢城には、小原肥前守鎮実、
遠江掛川城に朝比奈備中守泰朝、
藤枝の城には長谷川正長一族21人がいた。
これらは流石で数代の深恩を思って、金鉄の心を現したが、
小原は使者を立てて掛川城に申し送ったことには、
「“乱世忠臣を知る”という古語を今眼前に覚えている。
今川家が数代恩を与え恵みをかけて、将士を養った甲斐もなく、
譜代老臣どもは、その恩を忘れて義に背き、
この大切に臨んで敵に内通降参し、主君を追い出して国郡を奪わんとしている。
人面獣心論ずるに足らず。
鎮実は義を守り節を変ぜず、信玄に錆矢一筋を射掛けて、
君恩に報ぜんとの志である。」
と申した。
朝比奈は、これを聞いて、
「申し越されたことは節義の御志、返す返すも感じ入っております。
しかしながら只今味方は尽く離散し、この小勢をもって武田の大軍と決戦して、
討死することは、義は潔しとしても謀拙きにあらずとも言えまい。
氏真は未だ存命であるのに、妄りに一身の名を惜しみ討死するのは無益のようなもの。
幸い掛川城は要害堅固で、兵糧玉薬も乏しくはない。
泰能の所存は、氏真を当城に迎え取って厳重に守護すれば、
敵が幾万の兵で日夜激しく攻めたとしても、容易に落城はすまい。
その内には小田原の北条氏康父子もよもや捨て置かれはしないだろう。
きっと後詰をもなさるはずだ。
その時は氏真も回復の運を開くであろうと存ずる。
“死は易く生は難し”
と申しますから、一旦の恥辱を忍び会稽の恥をそそいでこそ、
勇士の誉れと申すべきである。
必ず短慮があってはならない。」
と、心中を残さず返答した。
泰朝は、その後、砥城の山家へ使者を立てて氏真を迎え取り、
掛川城中の軍勢7千余人は、各々が鉄石の如く志を一致して約束し、
節義を守って氏真を守護した。
泰朝こそ、類少なき義士と見えたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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