さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、
大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は、
「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい。」
と願い出た。
ところが信玄は頭を振り、
「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。
数代恩義を蒙った主君を捨てて叛逆したことを、大功と思っているのか。
君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、
甥の氏真へ返し渡す!」
と、大いに嘲笑って罵った。
葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を経て後に北条氏康へ内通し、
氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。
しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。
瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、
その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて、
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、
ついに民間に落ち入った。
朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、
武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他、大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、
あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるいは民間に流浪した。
不忠無道の天誅逃れざるこそ、恐ろしけれ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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