氏康御病気の頃より、今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、
関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は、
伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ、甲州より使者が来たる。
氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、
そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。
そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのか、その旨を合点なさり、
すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。
悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、
氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので、
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで、
「氏政は人倫に非ず。」
と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、
家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。
「中々に 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科にして」
家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、
御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。
そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、
早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、
このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。
中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、
当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!