快心老人は、見かけこそ愚鈍に見えましたが、
かつては実直さで勇猛さを評された武将でした。
主君と隣国の大将が戦した際、要の城を任され、
わずか五百の手勢で一万五千の大軍から城を死守しました。
援軍に駆けつけた主君は、その時つけていた甲冑を下されました。
その武功は老人にとって、今でも誇りです。
ある日、老人のもとを三男が訪れました。
三男は言います。
もはや藩にはいられないと。
三男は家督を継いだ若殿の信頼厚く、政敵であった先代の右腕の追放に成功して、
藩の実権を握りました。
しかし、先年の大坂御陣で失態を犯して面目を失い、
先日の若殿の鷹狩りにも随行を許されませんでした。
さらに、追放した政敵が復帰し、居場所を失ったのでした。
暇乞いを若殿があっさり認めると、さらに長男と次男、三男と、
「大の知音」という新参の本多までが藩を立ち退くと憤ります。
快心老人は叱りました。
「人として子を愛さぬ者はいない。
しかし、一人の子や兄弟、友のために、
家臣としての節を曲げるべきではない。
しかもお前たちは万石もの大封をいただいておるではないか。」
と。
この藩は家臣同士の権力争いが深刻で、
快心老人もそのことを気にかけていました。
「三男はすでに君命もあり、速やかに立ち退きなさい。
その他の者は残りなさい。あとのことはわしに任せ、
安心せよ。」
と説きました。
長男と次男、本多の三人は出奔を思いとどまりました。
この三人の家系は藩の家老を出す「八家」となります。
快心老人が、家中の深刻な分裂を防いだのです。
快心老人はそれから九年後、静かに亡くなりました。
かつては奥村助右衛門永福と名乗り、
主君・前田利家にとっての天下分け目・末森合戦で奮戦した武将でした。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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