宇都宮下野守国綱は、代々下野宇都宮十八万石を領し、関東にて豪家の一つであった。
しかるに慶長十二年十二月二十三日に無嗣のまま卒去。
これまで宇都宮に無嗣の場合、
庶流多賀家よりこれを継ぎ、多賀に子が無い場合は、
宇都宮の庶子を遣わして継いだ。
今度はこれに反し家老・神野川与左衛門は、
密かに正安らと相談して、
浅野弾正三男を養子として家名を立てようとした。
多賀はこれを聞いて大いに怒り、正安がこの事を談合する為に、
上方へ登ったのに追っ手を遣わし正安を殺害し、
神野川与左衛門の元へも討手を送って屋敷を取り囲んだので、
与左衛門は思うさまに戦ってから切腹した。
この事を家康公が聞かれ大いに咎められ、
多賀には切腹を仰せ付けられ、宇都宮の所領は没収となり、
永く続いた家名が断絶した。
かの家の祖、栗田関白道兼公の玄孫宇都宮宗円以来、
代々弥三郎下野守を称し数百年、
宇都宮の領主であったが、この時一朝にして滅びたのは無情のことであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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