この頃、宇都宮の力が弱くなっていたため☆ | げむおた街道をゆく

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この年(天正十七年)、宇都宮下野守国綱は、

家臣の芳賀、笠間、上三河などと協議することが有った。
 

これは常州中堂の益子筑後入道睡虎を誅殺し、その所領六百町を没収するとの話であった。
益子は、宇都宮家にとって紀の党と称される、歴代の股肱であった。

しかし近年、小田原の北条家に加担し、
笠間、上三河の土地を掠め取ろうという動きを見せていたためである。

この益子も含め、この頃、宇都宮国綱の力が弱くなっていたため、

家臣たちで宇都宮家より離れていく者が多かった。

壬生の上総介義雄も宇都宮方から離れ小田原に与し、

榎本の近藤出羽守も結城晴朝に押しつぶされ、
その後小田原の幕下へ入った。

 

芳賀伊賀守高経も近頃北条氏直に内応しているとの噂があり、

宇都宮では穏やかでない所に、この年の五月上旬、

那須与市資景、福原安芸守資則、大関左衛門佐資増ら一千余騎が、

宇都宮方の多気城を襲った。

多気城では、戸祭備中守、同紀伊守、赤垣信濃守、同周防守以下が奮戦して、

ようやくこれを追い返した。

さらに近頃では日光山の社僧、神人なども重代の由緒を捨てて北条家へ通じ、

八月には彼らが不意に挙兵し、宇都宮方の倉ケ崎城を囲んだ。

城方では大門弥二郎、大桶加賀守、戸山彦十郎らが二百騎でこれを守り、

社僧、神人たちを追い払った、

しかしこの時、大門弥二郎が討死した。

そして九月下旬には北条安房守氏邦が、

秩父、鉢形、寄居筋より八千騎を率いて再び多気城を襲った。
宇都宮方は力戦し、十月二日にどうにかこれを追い払った。

しかしここで、今度は北条氏直が直々に大軍を率いて宇都宮を攻めるとの沙汰が報じられ、

十二月朔日、
ついに宇都宮国綱より、北条方へ和議を申し入れ、小田原に人質を出したのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 継嗣が無く、宇都宮国綱

 

 

 

ごきげんよう!