東下総守政義(佐竹義久の事か)といえば、佐竹義宣の老臣であった。
戦国の時の武士は、先陣に進み一番に敵の首を得るをのみ心として、
己の主人のために利害得失を深く考える者は少なかった。
佐竹義久は打物を取っては人に優れるほどの功名は無かったが、
常に謀略を考案し、主のために益有ることが多かった。
慶長の関ヶ原の事が始まる前、
徳川家康は会津の上杉景勝を征伐せんと出兵したが、
この時、佐竹義宣は、那珂郡に陣して、徳川の背後から攻めようとした。
義久はこれを聞くと、義宣に向かって言った。
「私がこのところの徳川殿を見るに、彼には今、天の授ける幸運がついています。
それはほとんど人の力ならざる物です。
我が君がこの人に従って、会津征伐に参加されれば、
当家の幸運もこの上ないでしょう。
しかしもし、眼前の利に迷って、戦後になってから、疑いをかけられれば、
ゆゆしき御大事になりかねません。」
そう諌めたが、義宣はもともと石田三成と親しい仲であり、
義久の諫言を用いず、そのままの方針で日を送っていた。
ところが、徳川家康は上方に兵乱が起こったとの情報を得ると、
下野より軍勢を引き返した。
この時、使者を佐竹に送った。
『和殿は、先に仙道より会津に攻め入られると約束したが、
いま水戸を去ること数里にて軍勢を止めているのはどういう事であろうか。
今の天下の情勢を見るに、御身の勢力では、
その進退によって天下の軽重を為すのは無理である。
いまこの時に、よく考えられるべきだ。
東西の何れにも従わないというのは、先祖より伝来されし所領もどうなるかわからない。
会津を攻められるとも、人質として親族を出されるとも、
また子息らを我が軍に従わさせるとも、御身の望む所に任せる。』
この書状に対し義宣は、
『私は内府を恨む所はありません。であればどうして背くことがあるでしょう。
ですが義宣の子息どもは、おおかた大坂に参らせていて、
今こちらには参らすべき者一人もおりません。
もしそういう者がいれば、どうして仰せを待つような事をするでしょうか。』
そう返書した。
この佐竹義宣の態度に徳川家の人々は怒り、
「憎き佐竹の申状かな!
その義であれば踏み潰して後、西に向かうべし!」
との意見が多く出た。
しかし家康はこれを押し留めた。
「そうではないぞ。
樹木を以ってこれを例えるなら、石田三成は根であり、その他は枝葉にすぎない。
その根を刈り捨てれば、枝葉はもう、どうにもならない。」
そして、皆川下妻の勢を以って佐竹の押さえとし、急ぎ引き返した。
この時、佐竹義久は進み出て、
「内府、西軍の挙兵を聞いて俄に引き返しました。いま、
そこに従軍している者達は合戦の考えはありません。
追撃すれば勝利疑いありません!」
そう進言したが、佐竹義宣は雄々しからざる性格であったので、
この案を用いようとしなかった。
義久は歯噛みしながら、
「ああ、危うい!
我が君既に徳川殿に従わず、もし徳川が勝利すれば必ず我らの災となります!
また西方にしっかりと従わない以上、かの軍もこの情報を得れば、我が君を疑うでしょう。
これは一挙にして両失というものです!」
義宣は尋ねた、
「ならばどうすれば良いのだ?」
「当面は数百騎を東軍に派遣して、二心無き事を示すべきです。」
義宣はようやくその議に従った。
関ヶ原の合戦が終わり西軍が敗北すると、佐竹義宣は大いに恐れ、徳川家康の前に伺候し、
「窮鳥懐に入る時、猟者もこれを許すと承ります。どうか重き罪を許していただきたい。」
と訴えた。
家康は打笑い、
「乱世の時は各々その国によって敵の隙を伺うのは豪傑の為す所であり、
誰がその是非を批判すべきだろうか。
佐竹が今回したことは、東西両道をかけた汚き心であり、赦すべきものではない。
であるが、佐竹義久の謀略は世に得難き優れものである。
あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう。」
そう言って許した。
しかし慶長7年、佐竹義久が病死すると、義宣は常陸から出羽へと移された。
「国の柱石とは義久の事だ。」
義宣はそう悔い思ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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