義忠は、最上義光の四男。
14歳にして1万9000石を領し、山野辺姓を名乗る。
一門きっての俊才と目され、必見した家康に、
「恐るべき怪童」
とまで評された。
が、その才能が義忠待望論につながり、最上騒動へ発展、改易の憂き目となる。
義忠は、備前池田家のお預かりとなった。
ちょうどこの頃、池田家で大事件が発生する。
藩士・河合又五郎が、主君・忠雄の小姓を殺害、出奔したのだ。
しかも、よりによって池田恒興を討った旗本・安藤家に逃げ込んでしまう。
河合家の旧主だったからだが、忠雄にとってはたまらない。
忠雄は敵討ちの遺言まで残し、外様大名と旗本の対立に発展してしまった。
実はこの時、又五郎を一時匿ったのが蟄居の身だったはずの義忠。
…ということは、安藤家への手引きにも関わっていたことになる。
忠雄は病死、池田家は藩主幼少という名目で鳥取へ移封。
この時に、義忠は水戸藩に1万石という破格で迎えられるのだった。
義忠の次男は藩主の娘を娶り、徳川の端に連なる身分となる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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