最上義光の死後一年ほどが経ち、時の将軍・秀忠の名前で、
「一国一城令」が布告された。
この法令は一大名につき一城しかその領有を認めず、
特に西国の大名の牽制を目当てに公布されたという。
ここ奥羽の地でも「一城令」は他人事では無かった。
秋田の佐竹家でも関ヶ原以降の転地という理由もあり、
支城を幾つか認められたものの、
安東氏以来の旧城はその大半を潰さざるをえなかった。
最上家に至っては安土桃山期以降も、
「城」とつくものだけで、100城以上があったという。
城潰しの件で家中会議が焚決した際、
義光の子で出来人と言われる山野辺義忠がこう発言した。
「諸侯、最上の城は山形の城だけですな?」
ザワザワザワザワ・・・・・・。
「ふざけるな!」
「我等の城を潰せというのか?」
「何をおっしゃる!」
「黙れ若僧が!」
家中の騒ぎを、当主・最上家親が遮った。
家親、「義忠、わが弟とはいえ、庇いきれんぞ。 何か思惑でもあるのか?」
義忠、「此度の件は城の破却が問題でございます。
城で無ければ壊す必要性はございません。
館(たち)と証せば、よいのでは。」
言葉のアヤを取るとは言え、秀忠に顔の利く家親と、
義忠の幕府の実力者土居雅楽への手回しもあり、
最上領の城の棄却はほとんど行われなかったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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