元和の最上騒動で、最上家信(最上義俊)が山形57万石を改易されると、
所領1万石以上の大身の重臣は最上領から追放となり、
他家預かりや国外追放となったが、狩川城主・北館利長だけは、
「最上の御家騒動に責無し。」
「庄内治水の功労を認める。」
と幕命により、出羽に住む事を許された。
北館利長の所領は当初狩川3000石であったが、
庄内潅漑治水の功績により最上義光の遺命で、
「治水により増えた新田はすべて利長の知行とする。」
と加増を安堵され、狩川領は3万石近い清算高までになっていた。
家信の改易後最上領は、複数の家の領土に分けられ、
庄内には徳川譜代の酒井氏が14万石で入った。
そして狩川領を収公された利長に、新領主の酒井氏から仕官の話がなされた。
利長、
「知行150石の足軽大将並ですか。」
利長は、この仕官の口に子(甥とも)の助次郎を酒井氏へ勧め、
使者のいなくなった後に助次郎へと話した。
利長、
「いいか、私は亡き大殿(最上義光)から過分の大恩を頂き、
家親公・家信公からも身代を許され、最上家のために忠勤を励んできた。
しかし酒井家にとって、私は外様の厄介者に過ぎないらしい。
おまえ(助次郎)はまだ若い。
150石の知行だが酒井家に仕えよ。
それといいか、北館の『館』の字を『楯(城の意味)』に変え、
『最上にキタダテあり』の誇りを常に忘れずに、世に気概を示せ。」
利長は、墨染めの麻袈裟に椀と杖と義光から頂いた愛用の綿帽子だけを持つと、
たく鉢坊主となり、世を捨て旅に出た。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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