慶長出羽合戦のあと、最上義光は庄内領有に成功する。
しかし最上家中にひとり、複雑な気持ちのものがいた。
北楯大学利長である。
彼は庄内の民が餓えているのを見て、不思議に思った。
「なぜ平地なのに稲がないのだ?」
「水がひけなきゃ稲作なんか無理ですって。」
「そうか…水がないのが悪いのだな。」
当時の庄内平野は広大だが水回りが悪く、荒れ地が広がるばかりだった。
大学はそれから日夜庄内を見回り、どうすれば水をひけるか考え抜いた。
彼の熱心さは周囲に奇妙にうつり、農民すら陰では彼を「水馬鹿」と呼んでいた。
それから十年近く経過した。
調査結果をたずさえ、北楯が山形に登城した。
彼は庄内開発の利をとくが、
身分の低さゆえに誰も相手にしない。
義光はかねてより、北楯に好感を抱いていたこともあって前向きだった。
北楯に目だった武功はなかったが、義光はかつて彼の居城・狩川城を視察し、
武具点検をしたが、装備が見事に揃っていることに感心した。
それ以来、義光は北楯に目をかけ、細やかな気遣いを見せる書状を送り続けていた。
だが、主君の寵愛だけで藩を左右する工事は決定できない。
義光は事業が可能かわからず態度を保留した。
そしてひそかに大工をやり、
北楯のプランが実行可能か調べた。
結果、
「見事な設計、工事可能。」
という結果が出たため義光は工事許可を出した。
しかし北楯を侮る者は多く、妨害がたえない。
義光はこまめに手紙で励まし、
北楯に異例の権限をあたえて工事をすすめた。
義光や北楯は、埋蔵金といつわって金壷を埋めておいたり、
上戸には酒、下戸には菓子を与えるなど、
細やかな気遣いで作業員をいたわった。
途中、死亡事故が起きるなどしたが、
工事は予定より早くすすんでいった。
ところが最後の難所、青鞍之淵を埋めようとしたところ、
水の流れが強すぎて、
いくら土をいれてもおさまらない。
困る北楯に彼を妬む同輩はいった。
「貴殿は工事がならなければ切腹する覚悟だったな?」
北楯はこの言葉に死を覚悟し、愛馬の鞍をはなつと祈りながら淵に投げ入れた。
すると不思議なことに、流れはぴたりとおさまった。
皆喜びここに土を投げ入れたところ、淵はあっという間に埋まった。
こうして四ヶ月に及ぶ工事はやっと終わった。
艱難辛苦をへて、大堰と呼ばれる用水路が完成した。
これにより庄内平野の収穫高は十倍にふくれあがった。
米どころ庄内のはじまりである。
義光は北楯大学の功績を喜び、
「きっと将軍家にも伝えて代々残るようにする。庄内末世の宝である。」
と絶賛した。
北楯大学は死後も水神として、庄内のひとびとに敬われた。
のちに明治になって、北楯大学の功績を賞した住民たちは、
「大堰」を「北楯大学堰」と改称した。
四百年を経てなお、北楯大学堰は庄内平野をうるおし続けている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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