天正11年、最上義守が、大病をわずらって危篤状態におちいった。
そのとき彼は、義光や義姫を枕元に呼び、
大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえた。
「今自分が亡くなったなら義光と輝宗が仲たがいして、
合戦をはじめるのではないか。
これだけが心にかかることだ。
最上と伊達がいくさをして、例え輝宗が勝ったとしても、
最上の主人になることはできまい。
逆に義光が戦いに勝ったところで、
奥州を手に入れることはできないだろう。
おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、
他の大名がとくするだけだ。
最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。
ただし、両家が仲良くしているならば、
佐竹・上杉が一つになって攻めようとも、没落することはないはずだ。
氏家・志村よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、
けっして背いてはならぬ。」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは、日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が、功を奏したとされ、
これに感謝した義光が、
一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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