天文二年(1533)、一人の若き僧が、安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。
日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、
二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。
やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、
ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。
天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時、義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。
古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は、
学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、
その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、
二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。
相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でも、それだけは受け入れられぬ。」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。
月日は流れ天正二年(1574)六月一日。
その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、
日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。
隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん
二人の眺めた光とは、房総の安寧か、尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は、
「関東無双の大将」と述懐したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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