豊臣秀吉が、五畿内の軍勢数万騎にて、小田原の北条氏直を攻めると、
諸軍勢に軍法を下された頃、佐野天徳寺はこう申し上げた。
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」
秀吉はこれを聞くも、
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」
しかし天徳寺。
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、
故宗綱の家来が五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」
しかしながら、秀吉は考え深き大将であり、
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、
今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」
「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も、
「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ。」
と仰せになった。
そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、
秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、
集めることの出来るのは百人以下という有様であった。
天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
これよりのち、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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