豊臣秀吉による小田原征伐、豆州韮山城攻めでの事。
この韮山城主である北条美濃守氏規は知勇兼ね備わり、
信義仁徳に厚い武将であったため、
配下の者もよく美濃守に懐き、この度の戦いでは尽くが、
主人とともに城を枕にと互いに誓い合った。
そして美濃守は平時より弓を良くし、その配下にも二人張り、三人張りの弓を引き、
百発百中という者が多かった。
そのようであったので、
箙(えびら)、胡祿(やなぐい)、尻籠(しりこ)、空穂(うつぼ)といった矢入れも、
上等のものをあつらえ、そこから手早く取り出し射る矢は、刺矢も遠矢も威力があり、
雨あられと降る矢に、仇矢は一本もなかったのである。
さらに加えて、鉄砲の名人が櫓の上や塀の狭間より眼下の敵を撃つのである。
寄せ手は見る見るうちに撃ち殺され、死人の山となった。
この時、寄せ手の蒲生氏郷勢の先鋒である蒲生左門(郷可か)は、
采配を振るいよく下知していたが、
城中よりの鉄砲が左門の従卒に持たせていた槍の柄を真っ二つにした。
さらにその弾丸は弾み、左門の左目に当たった。
しかし左門は血が滝のように流れ出ている左目に指を突っ込み弾丸を取り出すと、
そのまま尚も先頭に立って進んだ。
この姿を見た味方も城方の兵も一様に感嘆し、
「彼は鎌倉源五郎景政の再来か。」
と語り合ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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