「助五郎よ」「竹千代よ」☆ | げむおた街道をゆく

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天正十年七月十九日、徳川家康は遠州引間郡浜松城を発進して、

同月二十四日に甲州へついた。
 

柏原の傍らの勝山に旗を立て、そこに服部半蔵正成を残すと、

自らは古府中の一条右衛門太夫信龍の旧宅へと入った。

そして若神子口へ、

大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、本多豊後守康秀の三人を遣わしこれを守らせた。

これは敵を古府中へ近づけないためである。

同月二十九日、北条氏直と対陣したが、所々方々で徳川方が切り勝ち北条方は不利となり、
十一月にはこれ以上持ちこたえられないと、北条氏政、氏直父子の命を受け、

伊豆韮山城主である北条美濃守氏規が両家和議のために働き、

幸い上手くいって、氏直が退陣することと成った。
 

しかし氏直は退くに当たって旭山に砦を築きそこに番兵を置いたが、

これが家康の気分を害した。

「氏直のやり方には表裏がある。この上は是非に及ばず、一戦を交えん。

そもそも今度の和議を受け入れたのは、中にはいった北条美濃守が今川義元の全盛の頃、

その人質として私も共に幼少を過ごしたよしみによるもので、

本来和睦をしたくはなかったのだ。

残念ではあるが今は運を天に任せて一戦あるべし。」

そして徳川方は物見を出すと、若神子より長浜へかけて陣を固め、

その上で家康の意を込めた書状を朝比奈弥太郎泰勝に持たせ北条方へ遣わした。

 

弥太郎はただ一騎で北条方の陣に向かうと、
平沢あたりに入り乱れて陣を敷いている所に駆け込み、まず大道寺駿河守直繁の陣へ行き、
「徳川家康よりの使いの者である。北条美濃守の陣所は何処なりや。」

と叫んだ。

駿河守はこれを聞いて案内を付け、朝比奈弥太郎を美濃守の陣所へ差し向けた。

氏規はさっそくその書状を読むと氏直に会い、和議の件が相違ないことを確認すると、

その証拠として大道寺駿河守の嫡子である新四郎を人質とし、

彼を連れて朝比奈弥太郎とともに家康の陣へ同道した。

新府城に在った家康に、榊原康政が奏者としてその趣を言上すると、

家康は承知し美濃守と対面した。
 

二人は共に幼少の頃より長く今川に人質に取られていた仲間であり、

「助五郎よ」「竹千代よ」と、
その頃の話を懐かしく語り合い、飽くことなかった。

やがて美濃守は人質の大道寺新四郎を鳥居彦右衛門元忠に預け陣所を去った。

後刻、美濃守は改めて新府城を訪れ和議が整った。

その折に家康が鵜殿長門守(長忠)の娘に産ませた姫(督姫)を、

氏直へ輿入れさせる約束も出来た。

 

かくして北条の軍勢は甲信の陣を払い十一月下旬に小田原へ帰陣した。
それから間もなく、家康は大道寺新四郎を小田原へと送り戻した。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 北条一族の名将、北条氏規

 

 

 

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