秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。
そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。
この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。
その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、
寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、
東国丸の冥福を祈ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!