天正五年十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人が、上杉謙信公によって誅殺された。
これは三年前に、良馬を京都へ売りに家臣を遣わした折、
これを知った織田信長公は手を打って大いに悦び、
「上杉君臣を離間する手段、これに有り。」
と、則ち馬代を十層倍で買い取り、
さらに信長公は自筆を以て、
『今度差し上げた馬は近頃まれに見る俊足にて、大悦これに過ぎる事は無い。
ところで伝え聞くに、北国には鷹の逸物が有るという。
そこで巣鷹を所望したいと思っており、
必ずこれを調えてほしい。』
との書翰が柿崎に届いた。
彼はこれを真と思い、度々に鷹を買い調えて信長へ進上した。
しかしこの事が顕れると、信長と内通し逆心するのではないかという事で、
謙信公は、
平賀宗右衛門、吉江中牟、本庄越前守の勢七千にて、
柿崎の屋敷を取り巻いた。
これに柿崎和泉守、並びに男子三人、手の者七百ばかりが切って出て、
二時あまり戦い、屋敷へ引き籠もった。
打ち手は数十人が討たれ、手負いの者は数知れなかった。
その後、遂に寄せ手は屋敷に乱入し、柿崎父子四人は討たれた。
柿崎は越後の国侍で、久しき家であった。
史実としては、柿崎景家は天正二年十一月二十二日に病死していて、
その息子の柿崎晴家が天正五年に、織田へ内通したとして、
謙信に誅殺されたという話があるので、これが混同されたのでしょうね。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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