上杉景勝の家臣・岡左内定俊は、
主家の米沢転封後、その苦しい台所事情を思い上杉家を退転した。
武門名誉の家にあってなお勇名を馳せた左内は、
たちまち諸大名から引く手あまたとなったが、左内自身は、
「馴染みがあり申すゆえ。」
と、上杉家以前に仕えていた蒲生氏郷の子・秀行のもとに馳せ参じた。
秀行は、六十万石で会津に復帰すると、左内に知行一万石を与え、
猪苗代城代の重職を任せた。
小大名並みの禄を手にするに至った左内だったが、
相も変わらず憑かれたように金を貯めこみ、月に二、三度は、
例の小判を敷き詰めた上に、素っ裸で寝転がる奇癖を繰り返す日々を送った。
秀行が亡くなり、忠郷の代になったころ、左内も床に伏せたきりになった。
『もはや、これまで。』
と思い定めた左内は、忠郷とその弟・忠知に、
「おかげを持ちまして、蓄えることが出来申した。」
と書状を添え、忠郷には黄金三万両と正宗の太刀、
忠知には三千両に景光の刀と貞宗の脇差を贈った。
残った金も、知人あてに五両・十両と包んで贈った左内の手元には、
大きな鋏箱のみが残された。
「この箱は、いかがいたしましょう?」
「焼き捨てよ。上杉を去るに及んでも、やったことだ。世を去るに及んでも同じことよ。」
箱には、山のような借用証文が入っていた。
箱が炎の中に消え、最後の心残りが消えたのを見届けた左内は、静かに息を引き取った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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