慶長4年正月19日の夕方。
徳川家康の屋敷に、石田三成が、大将となって、攻めかかってくるとの沙汰があった。
徳川屋敷では、俄な事でも有り、
屋敷の角々に、材木、石、棒などによって縄からけの櫓を掛け、
敵が攻めてくるのは、今か今かと待ち構えていた。
この時、本多大和守(政重)と、本多三弥(正重)は、こう話し合った。
「屋敷のうちで、どれだけの働きをしても、
家に火をかけられ、煙の下で果てるのは口惜しい事だ。
敵の軍勢が来て屋敷に火をかけてくれば、
我々両名は、ここを抜け出し、
その時、治部少輔は、城の大手広庭に腰を掛けて下知をしているだろうから、
そこに『家康内の者、降参人』と名乗り出よう。
そうすれば、屋敷の様子を聴くために、呼び出されるであろうから、
その時、二人のうち一人でも、飛びかかって治部を刺し殺そう。」
このように言い定めたが、その夜、軍勢が攻めかかってくることもなく、
翌日から世の中も、普段と変わりない様子であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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