上野介殿は、誠に忠臣というべき人☆ | げむおた街道をゆく

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台徳院様(徳川秀忠)の御時に、本多上野介殿の身が果てたことについて、

世上には色々と雑説が多く、
逆心の様に取り沙汰されるが、論じるまでもないことだ。

 

上野介殿は、誠に忠臣というべき人である。

父・佐渡守は、智謀の深き人ではあったが、いやなる人で、

上野介殿は、その子ながら父には似なかった。

権現様が、最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、

台徳院様を御立てになるべきかと、老中へ意見を求めた時、

佐渡守は、

「秀康公は、一度、太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎになったのですから、

天下は秀忠公が、御継ぎなさるのが当然の理でございましょう。」

と申され、老中は、いずれもこれに同意した。

しかし、上野介只一人が、

「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。

只今までは太閤に御遠慮にて、わざと御疎々しくなされたといっても、

御父子の情に変わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。

秀康公こそ御順道と思います。」

と申された。

その時、佐渡守が、

「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」

と叱られると、上野介は座を立たれた。
 

結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様は、この事を殊の外、御遺恨に思し召された。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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