天正十八年三月二十日、小田原征伐のため東下した豊臣秀吉は、
徳川家康の居城である駿府城へと入った。
この時、家康は長久保の陣より参って対面した。
秀吉の家来が数多並ぶ中、本多作左衛門重次が家康の後ろから現れ、
立ちはだかって大声で怒鳴った。
「やあ殿よ殿、あっぱれ不思議をなされることよ!
国を保とうとする人が、我が城を明け渡してしかも人に貸すことがあるか!
そのような気では、人に貸せと言われれば、北の方をもお貸しなさることでしょう!」
そう罵って帰っていった。
家康は唖然とする人々のほうを向いて、
「今の老人の言うことをお聞きに成られたでしょうが、
あの老人は本多作左衛門重次といって、
この家康の累代の家人であり、私が幼い頃より仕えている者です。
彼は若い頃から弓矢打物を取っては人にも知られた者ですが、
今では、ご覧になったように歳もいたく寄りまして、私も不憫に思っているのですが、
天性わがままな根性の持ち主にて、
他人を虫けらとも思わず、多くの人々が聞く所でも、
あのように私を、事がましく言い立てるのです。
ましてや私が彼とただ二人でうち向かった時、どんなことを言われているか!
どうか想像して下さい。
普段ならそれでも構わないのですが、
どうしたわけか今日もあのような奇怪な振る舞いをしてしまうとは。
これを人々がどのように思われるか、大変恥ずかしい事です。」
これに、その場の人々は、
「本多作左衛門の事、久しく聞き及んではいたが、実際に見たのは今が初めてだ。
誠に聞きしに勝るものかな。
あのような家臣がいるというのは、実に奥ゆかしいことだ。」
そのように感じ入ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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→ 鬼作左、本多重次
ごきげんよう!