利勝の知慮は、衆人の及ばぬところ☆ | げむおた街道をゆく

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土井大炊頭利勝は、土井小左衛門利昌の養子である。

実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、

「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている。」

と、言った。
 

利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。

この頃までは、髭を立てて置くのが風俗であったが、

利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。

先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、

台徳公(徳川秀忠)と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、
「さすが新田殿の子孫である。」

と賞美なさった。

神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らいを御賞美なさった。

その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。

しかるに、これまでは密事を評議するには茶室などのような狭い所で、

その周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、
この度は利勝が大広間の真ん中に座り、

その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆のみ一座し、

他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、
これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。

利勝の知慮は衆人の及ばぬところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、

「正純は不届きとはいえ、正信以来旧功の家であるのに、

此度の御仕置きは余りに厳重すぎである。」

とのことだった。
利勝はこれを聞いて、

「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下長久ならず。

それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。

正信がどうして泉下において、恨み申すことであろうか。」

と、申したということである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 公正さを重んじる、土井利勝

 

 

 

ごきげんよう!