市川茂右衛門と加藤甚九郎は、鳥居元忠の家来であった。
慶長5年(1600)、彼らは関東の元忠の所領にいたが、
蜂起した石田三成等の軍勢により、
元忠のいる伏見城が囲まれたということを聞くと、
取るもの取らず、急ぎ伏見に向かった。
ところがその手前に大津城主・京極高次によって、
関が設けられ、怪しいものが通らぬよう、
人改めをしているという話が聞こえてきた。
そこでこの両人は急ぎ出家の姿になり、わずかばかり覚えていた経文をとなえ、
これによりどうにか関を通過した。
だが伏見城は西軍に厳重に囲まれ、どうにも入城する方法がない。
そこで二人は京に上り、鳥居元忠が常々懇意にしていた、
佐野四郎右衛門と言う町人のところに行った。
「我々は、どうにかして伏見城に入りたいのだ。」
伏見城は大軍に囲まれ援軍の当てもなく、誰が見ても落城は時間の問題であった。
それでもなおこのように言う二人に、四郎右衛門は感動し、
両人のため具足、槍、薙刀を用意、
密かに城内と連絡を取り、
7月末日の夜、二人は無事、入城に成功した。
彼らは鳥居元忠と共に討死し、見事本意を遂げた。
また、この佐野四郎右衛門は、伏見落城の後、
大阪で獄門に掛かっていた鳥居元忠の首を盗み出し、
京に持ち帰り葬儀を行ない、さらに知恩院の寺内に龍見院という寺を建て、
そこで元忠の霊を厚く弔った、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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